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世界的ジャズトランペッター 日野皓正氏の体罰事件の考察

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(画像出典:youtube

 

どうも、「普段着に着物ええやん!」と購入して1ヵ月、まだ一度も着ていない 

ShiNO STS【ブロガー】 (@shino_net) | Twitter です。

 

日野皓正氏のビンタ事件、ただいま大炎上中ですね。

seidentest.com

日野皓正氏を擁護する声、避難する声。

双方から様々な声が聞こえてきますが、この件の本質を考えた場合、誰もが正しく誰もが間違いな、そんな気がします。本稿は、一応音楽業界に長年関わってきた人間として、また、一人のミュージシャンとしての視点も交えて書いてみようかと思います。

 


 


 

とにもかくにも暴力の肯定はあってはならない

僕は体罰で育ってきた人間です。教護院に2年入所していたのでその時代の体罰はそれはもうエグかったですよ。

で、その時の心境としては、「どれだけ正しい行いをするか」ではなく、「どれだけ先生を怒らせないように振る舞うか」で毎日頭がいっぱいでした。ですが、結果的に「悪事はリスク(痛み)と引き換え」ということを学んだ気がします。それは社会生活において刑法に置き換えることができますね。

けれども、それは同時に「一方的に降りかかる暴力」でもあるわけです。もちろん反抗や反撃なんて選択肢などあるわけもなく、ただただ痛みと恐怖に耐えるだけ。

 

「体罰」「教育」

 

これらの言葉って、実はとても曖昧ですよね。教育の一環であるなら暴力を体罰と言い換え、なんとなく許される雰囲気になる。

だけど、どう言い換えたところで暴力は暴力です。普通に傷害ですよね。立場や関係性で正当化されることもしばしば。今回の件も日野氏を擁護する方の中には「中学生も悪い」「時に体罰は必要」という意見が散見されます。日野氏の釈明でも「師匠と弟子、親子のような関係」とあります。(結局それ他人だけどな...)

で、ほとんどの意見の頭には「暴力はダメだけど」「体罰は許されるものじゃないけど」という予防線を張ってるんですよね。

 

いやいや、はっきりせんかいな。

 

「暴力はダメだけど」、なら、"ダメ"なんです。

「許されるものじゃないけど」、なら、"許されない"んです。

それが確固たる事実ですよね。この「けど」の後で正当化することによって暴力が許容されるなら法治国家ではないわけで。

これを肯定するなら、「暴力で言うこと聞かせるべき」「体罰は許される」と言いきらないとなんの説得力もないです。そして、発した全ての意見には責任とリスクが生まれる。その責任とリスクから逃げてる言い回しが、「けど...」です。無責任極まりないと思います。

 

体罰の正当化は当事者のみに許されるべき

関係性、交わした言葉、愛情、軋轢。

それらは結局当事者にしかわからないことなんです。言葉で説明されてもその深度までは探れないでしょう。

師匠として弟子の暴走を止めるために殴った。これは、当事者間では許されることなのでしょう。件の中学生は日野氏に謝罪し、親は感謝している、とのことなので。

www.daily.co.jp

 

だけど、この暴力を愛情や教育として納得していいのは当事者だけです。

もしも殴られた中学生やその親御さんが納得いかないと被害届出せば普通に傷害罪の案件になってしまいますよね。この出来事って、そういうことなんです。

つまりは社会のルールとして、愛情や教育、関係性なんて曖昧なモノサシで第三者が肯定していいわけがないんですよ。基準にしなければいけないのは法律だからです。

で、その法を冒してでも愛情や教育として暴力を向けるなら、100%否定される覚悟でやらなければいけないし否定されなければいけない。

そういう多大なリスクを請け負ってなお必要だと思う体罰を加えるからこそ真に愛情であり、信念であるわけです。これが簡単に許容されるものであれば愛情の計りにすらならないです。

 

体罰=傷害は否定されるべきだけど、本人たちが納得して事件化しなくてはじめて「教育」として成立するものだと思います。

そして、体罰が必要であることと、体罰の肯定はイコールではない、と思います。暴力に怯えている子供、体罰、躾の名のもとに死んでしまった子供が数知れず存在するわけですから。

これはビンタだからいい、回し蹴りだからだめ、という話でもない。

 

意見の中には、「良い体罰と悪い体罰がある」「なんでも暴力と一括りにするな」「体罰を受けた経験があるからこそ肯定する権利がある」「体罰、躾、暴力は違う」という声も多いですね。友人との話でもありました。

それらをどう捉えどう感じどう考えるかはもちろん自由です。しかし、それを「公に声明し決定づける」のは裁判長です。

 

体罰に対する筆者の本音

ブログで書く以上、これも公のは発信となりその責任は伴います。もちろんこれまで書いた通り法治国家に暮らす国民として暴力の肯定はしません。ですが、それが本音かと言えばまた違います。公に肯定はしないと言ってるだけではこのエントリは完結しないので、矛盾を承知で本音も書いておきますね。

 

体罰は必要な時もある。

 

これは間違いのない事実でしょう。

例えば、自分の子供が暴力で友達に大怪我をさせれば僕はぶん殴ってその代償を与えるでしょうね。痛みの実感としても必要なことだと思います。

ですが同時に、その行為は他者から許容、肯定されたくはないとも思っています。これも本音です。大事な子供に怪我をさせる(ひとつ間違えば死なせてしまう)、虐待と判断されるかも(場合によっては逮捕される)、そういったリスクを代償にして教育するからです。その苦しみや痛みは、僕だけのものです。あるいは、僕と子供だけのものです。

仮にこれが称賛される行為であるなら、なんの価値があるのでしょう?苦しみやリスクの伴わない体罰こそ、ただの暴力ではないのでしょうか。そしてその苦しみやリスクに成り立つ責任は、他人が物わかりのいい顔で肯定していいものじゃないんです。

 

外野は日野氏とドラム少年の一体何を知っているつもりなのか?

 

ともすれば "被害者を生む行為" であることを忘れてはいけない

「良い体罰と悪い体罰がある」「なんでも暴力と一括りにするな」「体罰を受けた経験があるからこそ肯定する権利がある」「体罰、躾、暴力は違う」

 

言いたいことはわかるけど、それでもこれは、体罰を行う側の一方的な論理です。その論理自体が正しいか間違いかではなく、受ける側の感性や考え、事情が考慮されていない強者の理屈です。その論理は受けた側からすれば、どんな正当化をしたところで『事後検証』でしかない。その瞬間においては、等しく『避けられない暴力』なのです。

 

力のある片側の理屈が必ず最初にマウントを取るわけ。弱者はいじめられたり殴られたり、必ずなんらかの被害を受ける。その後でしか、対抗できないし、被害が発生してからしかどちらが正しい間違いの議論が発生しないのは不公平。さらにそれが簡単に正当化されたりなんかしたらまさに救われない。
ジャイアンとのび太。大人と子供。正しくても、間違いでも、必ず弱者から先にダメージを受ける。

そういうものに、ものすごく嫌悪感や拒絶反応がある。

だから俺は法律を独学をした。
法律は老若男女全てに平等であり基準だから。
強者の論理は、社会でも同じ。無知な弱者から食い殺される。

 ShiNO Facebookでのつぶやきより

 

 

問題の本質はどこにあるのか?

「物事には、角度がある」。

 

これは物事を考察する時の自分の信念とスタンスです。

この体罰事件。ビンタに至る日野氏の考えや気持ちばかりが釈明されてドラムの少年は「なぜそれをやったか?」に言及されず起こしたトラブルだけがクローズアップされているように思います。本当に少年が悪いのか?もしくは、悪いことだけなのか?

rocketnews24.com

 

先に結論から書いておくと、少年が悪いのは間違いありません。いくらなんでもやりすぎ、暴走しすぎ、身勝手すぎです。

ですが、この「すぎ」が「すぎではなかった場合」はどうなんでしょうか。未熟ゆえにやりすぎてしまったものの、そもそもそういう行動に至った理由やプロセスはなんだったのか。

散見する記事においては、「トランス状態だった」「調子に乗りすぎた」「普段から問題のある子だった」など浅いにもほどがあるものばかりです。

ここから、社会通念、集団演奏でのマナー、という常識的観点と共に音楽関係者、ミュージシャンとしての視点も交えて考えてみたいと思います。

僕も僕とて予防線を張らせていただくと、あくまでも『理屈では』、という前提で読んでください。偶然でもあるかもしれないし、少年が本当にそう考えていたのかは知るよしもありません。

 

このコンサートは『ジャズ』である

日野氏は世界的なジャズトランペッターであり、ジャズを通じた音楽教育の一環として行われているものです。

もちろん、ジャズを教えているんだと思いますし、ジャズの理念や概念、楽しさやマナーも含めて教育を行っているでしょう。

では、少年の問題行動だとされるソロでの出来事。ソロを尺を守らず長くやった、他のメンバーを煽った、スティック取り上げられても素手で叩き続けた、などですよね。

これが、このジャズのコンサートでやってはいけないことだったということですよね。まあ、集団演奏であるまじき行為だと日野氏も多くの第三者も非難しているわけです。

 

ジャズの概念では全く逆です

 

まあ全く逆、というのは言い過ぎですが...

 

件の原因となったソロ回し。

『トレードセクション』と呼ばれるもので、ジャズライブや動画を観たことがある方はわかるかもしれませんがドラムソロが一番の見せ場的なセクションですよね。一番いきいきしてて楽しそうなので僕はそのセクションのドラムソロを観るのが一番好きです。

 

で。

ジャズの概念や楽しさってなんでしょうか?

バンド形式の当たり前の前提として、音楽理論と調和というのはジャズであっても当然に担保されなければいけません。けれど、それをあえて壊すのもジャズの楽しさと発展なんです。

『トレードセクション』はどちらかと言うとPAやレコーディング、DTMの中での言葉かもしれませんが、ジャズでは普通にソロパートでいいのかな?そのセクションにおいてのプレーヤーの感性や個性がジャズを進化させ発展させてきたと言っても過言ではないと思います。

例えばBPMや拍数を無視してクラッシュさせてからの帰結が美しかったりおもしろかったり。

例えばスケールアウト(和音とずれた音で不安感や帰結への期待を感じさせる技法)なんかはジャズから発展し、スケールアウトした音とマッチするコードとしてメジャーコードやマイナーコードにさらに音を追加した「テンションコード」が多く使われます。

これらスケールアウトやクラッシュは相応に技術が必要です。それを元通りに帰結させるにはさらに高い技量が必要です。だからこそ、見どころの一つだったりするんですよね。

ドラムソロ、通常尺で終わると見せかけて...続ける。そろそろネタ尽きたと見せかけて...ニヤリと笑いながらさらにテンポアップ。なんて往々にあることです。これもジャズの正当な姿の一つです。

 

そういう『ジャズ』というものを演奏することにおいて、この少年の表現はただただ間違いだったのだろうか?

 

集団演奏であり、誰もが等しく練習を頑張った成果の発表会です。一人の暴走が他の生徒の迷惑になることはわかります。

で、個人的な感想だけで言わせてもらうなら、「いやいや、ジャズ言うてもこのコンサートの感じはそういうのんとちゃうやん、みんなでうまいことやるタイプのやつやん!」と思います。これって一般的な認識だとも思います。

でも、『屁理屈だけで言うなら』これはジャズです。ただただ言われたとおりに演奏して調和だけを重んじるならコーラスやブラスバンドをやればいいのではとも思うんです。

ジャズをやるからには、そういう表現も一つの正当であると他の生徒は学ばなかったのか、日野氏は教えなかったのか。もしもその概念を認識していたなら、許容できたのではないのか。ジャズをやるのにそれを知らなかったなら知らない方が悪い、教えなかった指導者が悪い、ジャズを観にくるのにジャズの表現方法を知らなかった方が悪い。

そして、ジャズをジャズとして表現したドラムの生徒こそが正しい。

 

なんてことは飛躍した考え方だというのはわかっていますもちろん。

でも、倍小節多めにやっちゃうぐらいなら『ジャズ』として許容されたのではないのだろうか?少なくとも、ジャズ好きは許容できる人はもっと多かっただろう。(もちろん、最初から最後までしっかりと調和を守った演奏も主流であることは間違いない)

 

この観点から見えることは、「調和を乱して他生徒や観客に迷惑をかけたことがダメ」というのは的外れであるということ。必ずしもそうではない。許容されるもしくは「良かった」と言われるラインがあったのではないのだろうか。

"ジャズ"、という視点で見た人は、「ジャズだからそういうのもアリなのはわかるけど、そういうのとちゃうパターンの舞台やんこれ。この場でそれやったらダメだよね」、と思われた方も多いのでは?

少年の"ジャズ"は肯定しながら、舞台感にはそぐわない行動で台無しにした"空気の読めない少年の行動"を否定する。その感想が一番正しい気がします。

 

では彼の何がいけなかったのだろうか?

一つは、その表現を「ちょうどええサイズとテンションで」やりきって感動を与えられる技量がなかったこと。その技量が無ければステージが台無しになることは明白です。

一つは、調和や他のメンバーの気持ち、迷惑を考えなさすぎた。

さすがにやりすぎです。怒られて当然。非難されて当然。多分、僕がマスターでもブチ切れますね(笑)

だけど、この『すぎ』がなければ本来ジャズにおいては全然アリな表現です。教育委員会主催だとか伝統だとかみんなで練習した成果だとか色々やるべきではなかった要因はあったかもしれないけど、ただただ「ジャズを楽しみ楽しませる」という点だけを見れば、むしろジャズマンはどっち?と個人的には思うわけです。

 

調和だけを重んじるのが教育なのだろうか?調和のためには個々の表現や感性は殴られてでも封じられなければいけないのだろうか?

スティックを取り上げられても睨みながら素手で演奏した彼。

「これはジャズのコンサートだろう!なぜ怒られなければいけないんだ!尊敬するあなたはジャズの精神より体裁を優先するのか!」そんな思いで対峙してたように見えました。(ただの思い込みです)

 

まあどちらにせよやりすぎだしそもそもそんな感じのコンサートでもないので結局正当化は無理があるんですけどね。ただ、『ドラム少年側の視点に立った場合』そういう考え方もあるので、非難されるべきだとは思うけど非難するポイントもしくは非難の仕方はほとんどの人がズレてる気がします。

 

バンドマスターとして日野氏はどうすべきだったのか

これはもう前述したので繰り返しになりますが、例え手段が暴力しかなかったんだとしてもそれを第三者である僕が肯定は絶対にしません。

では暴力以外にどうすればよかったのか?

 

ここで考えなければいけないのは、この出来事が教室ではなく不特定多数の人が存在しお金が介在するコンサート中の出来事だということです。

日野氏の釈明、それをソースとした記事などでは、どうにも日野氏とドラムの生徒の間の問題として取り上げられているものが多いのですが、お金を払って見にきているお客さんや親御さんもたくさんいてる場での出来事でした。

「ある種教育の場だった」という意見もありますが、授業参観日ではないんです。どちらかというと「教育の集大成を発表する場」だと思うんですね。教育というプロセスは段落して、その結果を見せる場であったはず。

そういうお金が発生する公の場での興業と、閉鎖に行われる教育論や体罰論をごっちゃにして考えることじたい間違いだと思うんです。

では音楽コンサートとしての観点で考えた場合、どういう対応が適切だったのでしょうか?お客さんは安くないお金を払ってわざわざ足を運んでまで暴力の現場を見たかったわけではないでしょう。原因を作ったのはドラムの彼であっても、人を殴る姿、殴られる姿を見せたのは日野氏です。原因と対応はまた別の話なんですよ。

 

ちなみに、擁護する意見の中には「暴力と言えるほど強く殴っていない。目を覚ませ的にペチペチしてるだけ」「髪の毛は強く引っ張っていない」という意見が多くありびっくりしています。日野氏自身の釈明でも「軽く触っただけ」と言っていますが、そんな無理のある詭弁は動画を見れば一目瞭然です。

www.youtube.com

頭ガックンガックンなるほど強く引っ張って揺らしてるし思いっきりビンタしてますよね。特に2発目。仮に「軽く触っただけ」であっても、それは空振りの結果論だと思います。動画を見る限りでは。少なくとも、実際に経験のある僕から見ればかなり本気です。

 

話を戻します。

例えば興奮して「ジャズ」をやっちゃった彼を横から声かけてなだめてリードして集団演奏へと導き戻す。コンサートマスターとしてまず取りかかる手段は暴力での強制終了ではなく、お客さんの利益(演奏の継続・楽しさの提供)とコンサートの継続、成立を担保、回復する努力だったのではないのだろうか。

なぜその選択肢をはなから捨てていきなり暴力なのか。それをなぜ肯定擁護できるのか。ソロからの帰結の機会をスティックを取り上げることで奪いコンサートの崩壊を選択したのは日野氏も同じだ。(帰結できる技量があったかは別の話)

 

日野皓正さんは素晴らしいプレーヤーであることは間違いない

と言いながらそこまでジャズには詳しくないのですが、はじめてこの方を知ったのはタモリとのセッションでした(TVで観たのか動画で観たのか)。

むちゃくちゃかっこいいんですよ。正直タモさん寄りでの印象しかないのですが、それでもセッションはかっこよかった。

それ以降はまあこの事件が話題になるまで聴いたことはなかったんですが、 改めて色々聴いてみてもやっぱり素晴らしいプレーヤーだと思います。

だからこそ擁護の声も非難の声もたくさんあるのでしょう。

 

だけど、『教育者』としてはどうなのかなんて実際のところ外野にはわからないですよね?それを教育に結び付けて『体罰肯定論』なんて僕は的外れだと思うんです。

例えば釈明で自分と生徒の関係性を前提に「これからもビンタする」なんて表明することに僕は違和感を覚えます。

調和を乱した、平等にソロを回さなかった、という点を体罰の要点としながら「ドラム少年とは特別な関係」という。それ、他の生徒とそもそも平等じゃなくない?特別扱いじゃない?(良くも悪くも)

そういう特別扱いが日頃から二人の間に存在したのであれば、「自分は特別」という意識で主役ぶってしまったのではないの?という疑問も持ってしまいます。

少年が自分のエモーショナルを楽器や日野氏へぶつけて、それを日野氏が怒る、ぶつかり合う、なんて一連が日常的にあったのであれば、その延長を舞台でやってしまったのかな?とかね。それだったらそんな二人の青春ドラマに巻き込まれた他の生徒や観客はとんだとばっちりだよね。

 

でも、日野氏の釈明からはそんなことも想像できてしまいます。

 

とにもかくにも一番言いたことは

これが体罰肯定の前例となってはいけない

ということ。

 

世界的に有名な素晴らしいプレーヤーであることと、起こした行動は別問題です。

起こった事実のみを見れば、『怒られて当然の行動をしたドラムの少年』と、『暴力の行使で解決を図った日野氏』。どっちも悪い。これ以上でも以下でもないでしょう。

 

『怒られて当然』がイコール『殴られて当然』ではないということ。

 

そして、正義の立証と正当性の確保は違うベクトルの問題なのだということこそ、議論の核心ではないかと思うのです。

 

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